永遠も1クール弱を過ぎてPosted by:システム管理
春です。
こんにちは。
インスパイアの喜多です。
帳尻を合わせるように最近急に暖かくなってきて、こちらの心の準備などなどお構いなしに世間は春に突入しようとしています。
日本では3月は年度の終わりでもあるので、春は出会いと別れの季節などと呼ばれることもありますが、みなさまはどのようにお過ごしでしょうか。
私としては、技術の発展の甲斐もあって、なんだか最近は人とも物とも別れる機会が少なくなったように感じます。電波が人と人を繋ぎ、あらゆるものがデータとして無形物化され集約される今となっては、「完全な別れ」といものは生物としての絶対的なものを除けばかなり少なくなったように感じます。データが別れを奪ったのか、克服したのか、考え方は人それぞれかと思いますが、感じ方如何に関わらずこれからも技術は人の有り様を変えていくのでしょう。それこそ、絶対が絶対でなくなる時もいつかは来るのかもしれません。
同時に、出会いの機会も減っているように感じます。情報の発信も収集も誰でも簡単に行えるようになった今では、欲しい情報を欲しい時に手に入れられることが当たり前になりましたが、逆に欲しい情報以外の情報について触れる機会がかなり減ったのではないでしょうか。情報元の大半が雑誌やテレビ・新聞だったころは、情報とは第三者によって抽出されたものを与えられる、といった側面が強かったように思います。欲しい情報を得ようとすれば、同し媒体から他にも幾ばくかの情報が否応なく目に触れ、あくまで抽出されたものに限りますが、同じ媒体を利用する人たちの間では同じだけの情報に触れる機会があったのだろうと考えます。今と比べて、ブーム・流行が生まれやすかった理由もそこにあったのではないでしょうか。
比べて現代では、テレビ離れ・新聞離れに代表するように情報は自ら集めに行くものとなっており、だからこそ興味の外にある情報は、その他大勢の情報の奔流に飲まれ手の届かないところに埋もれてしまっているのではないでしょうか。見たいもの、得たいものだけと繋がって、それ以外に目が向かない、これこそが、出会いの機会を減らすひとつの問題の原因となっていると考えます。こうした偏った情報収集は、それぞれにそれぞれの常識を作り上げていきます。音楽に興味がある人にとっては幅広い音楽を知っていることこそが常識であり、政治経済に興味がある人にとっては世界情勢に精通していることこそが常識なのです。それらは個々人それぞれの中で生まれたものであり、おそらくかつて遍く存在していた共通意識としての常識とはまた出自の違うものだと感じます。そしてその出自の違いは相容れず、溝となり、様々なところに陰を落としています。
「世間知らず」「非常識」若い人に対してのそういった表現を多々見受けます。先ほど述べたような、個人の中の常識を軸として生きる人たちは、社会全体でみればまだまだ少数です。ましてや、一般的に社会人と呼ばれる人たちの中で見れば更に少ないでしょう。依然として、社会を回しているのは共通意識としての常識です。だからこそ一部の人たちは、社会に適応するためそれを学校教育や就職活動といったタイミングで学ぶのでしょう。完璧とはいかないだろうと思います。そんな人たちを「世間知らず」「非常識」と切り捨てることは容易いでしょうが、その行為に自己満足以上のどんな意味があるのでしょうか。その相手が多方面では自分よりも優れた知識を持っているとしたら、どちらが世間知らずなのかなんてその場その時で変わっていくものではないでしょうか。世間知らずと罵るより、お互いがお互いの世間を共有しあい常識を拡張させる方が有意義ではないでしょうか。
反対に、「カビ臭い考え」「老害」年上の人に対してのそういった表現も多々見受けます。個々人で常識を形成する人たちからすれば、全体での共通意識を基にした行動に対して、「息苦しい」と感じる人もいるのかもしれません。ですがその共通意識としての常識には、共通意識として存在し続けるだけの所以があるのでしょう。私自身も若造でしかありませんが、おそらく私たちが思っている以上に、「長く生きている」ということはそれだけ正しさに近いのだと思います。私はまだまだ人生の長さを想像出来ません。私たちはまだ永遠のように感じているこの人生の1クールほども生きていないのですから、得られる情報の絶対数にだって大きな差があるでしょう。「旧態依然」そう否定するより、自分にはない知識を借り受けて自信の常識をより良いものにしていく方が有意義ではないでしょうか?
そういった相互理解が進み当たり前のようになっていけば、これまで相容れなかったそれぞれの常識達が出会う機会にもなるのではないでしょうか。
その先で、また新たな共通意識としての常識が生まれるのか、それぞれがバラバラな常識のまま互いを尊重できるようになるのか、私にはわかりませんがそう遠くない先で見ることが出来るようになればと思いを馳せるばかりです。